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地名の由来

 地名の由来は不明であるが、12世紀ごろから17世紀初頭にかけて謡われた歌謡を集めた『おもろさうし』には、すでに「大さと」と記されている。

 また18世紀に琉球王府の正史として編纂された『球陽』巻16には、元々大里と称していた村が屋古(やこ)と名称を改めたが、それ以来人民が苦しむようになったうえ、屋古が「厄」に通じ、響きも良くないので、旧名の大里村に改称したという記述がある。

『糸満市史資料編13 村落資料-旧高嶺村編-第三章 大里 第1節 現況2参照』

南山城跡

 南山城は北山、中山と並んで、琉球三山時代(14、15世紀)に島尻一帯に勢力を広げていた南山王が拠点としていたグスクである。

 『明実録』等の文献によれば、山南王は承察度(ウフサトゥ)・汪応祖(ヤフス)・他魯毎(タルマイ)の三代にわたり、中国(当時は明)に使節を派遣して交易を行ったとある。島尻大里城、高嶺城、高嶺大里城とも呼ばれることがあり、現在は高嶺小学校敷地内の遺構が糸満市指定史跡となっている。

『糸満市史資料編13 村落資料-旧高嶺村編-

第三章 大里 第2節 あゆみ1参照131ページ』

 

嘉手志川(ウフガー)

 嘉手志川という呼称が大里部落民に周知されるようになったのは昭和の半ば以降ではないかと言われている。大里部落民は「ウフガー」と呼んでいて、現在でも日常的にそのように言っている。

 戦前から戦後の昭和三十年代ごろまでは部落民のほとんどが農業に従事していた。夕方、畑から帰ると夏場には大里の男も女もウフガーで一日の汗を流していた。湧き水から流れに沿って右手に大きさ1.6メートルほどのコンクリートの囲いを設けて、女性の水浴び場としていた。

 また、昭和36年(1961)に簡易水道が設置されるまで、生活用水の水源地としてウフガー、ユビガー、アクガーの3か所が主に使われており、家に一番近い所から汲んできて水瓶に貯めて使っていた。屋敷内にチンガー(掘り抜き井戸)を設けた家もあったが、洗濯物等は直接カー(井泉)に持って行って洗った。

 

『大里字誌 第八章生活 第二節生活 五参照542ページ

『糸満市史資料編13 村落資料-旧高嶺村編-

第三章 大里 第4節村落組織と活動 5.簡易水道参照145ページ』

嘉手志大川

      (かりゆしの泉)

 

             誌  山 城 徳 蔵

             曲  杉 本 信 夫

一. 大里の村よササ 果報な村でむぬよ

   ブズン岳くさてよササ 走川前な前なちよ

   シターリユイユイヒヤササユイササゆりてくー

   踊ろて遊ばな語りて遊ばな サーサ ハイヤ

             (二番以後ハヤシ同じ)

 

二. 音にとゆまりるゆササ 南山の城よ

   南部島尻ぬよササ 元地でなでむぬよ

 

三. 城下なかいよササ  かてし川ぬ流りよ

   水質ぬゆたさよササ 流りづらづらさよ

 

四. かてし川ぬ水やササ 梅の花たとてよ

   くりる大里ぬよササ かがみでむでむぬよ

 

五. かてし川の水ぬよササ つらさあるゆいど

   大里ぬあん小よササ  生まりつらつらさよ

 

六. かてし川ぬ上によササ みーとガジマルぬよ

   御縁かながなとよササ むていづらづらさよ

 

七. ガジマルぬむいてよササ 我が村ぬ栄いよ

   ちむすりてたげによササ 百才までまでんよ

大里の歴史

高嶺村(たかみねそん)はかつて沖縄県(戦後は琉球政府)島尻郡にあった村で、現在の糸満市中部に位置する。1908年の島嶼町村制施行で高嶺間切から高嶺村となった。1961年に北に隣接する(旧)糸満町・兼城村と南に隣接する三和村と合併し(新)糸満町となり消滅。現在は旧村内一帯を高嶺地域として糸満市の一地域として位置づけられている。村の中心部は字大里だった(2006年に南城市に合併された旧大里村の大里とは別)。

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